2019年02月20日

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 (講談社選書メチエ)
異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 (講談社選書メチエ)

『異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(ミシェル・ロクベール,武藤 剛史):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

南仏カタリ派の歴史――あるいは南フランス地域がいかにして北フランスに統合されることになったか、という感じの本であった。

とはいえ、中世スペイン史への興味から本書を手に取った身としては、南仏カタリ派の歴史――あるいは南フランス地域はいかにしてアラゴン連合王国の手中からすり抜けていったか、という感じの本でもあった。

というのも、『歴史人名学序説』の感想でも軽くふれたように、現在のスペインの一部をなしているカタルーニャは歴史的に南仏オクシタン地域との結びつきが強かったのである。しかも、その地の宗主権を有していたのは、名目的には常にフランスの王であったが、アルヴィジョワ十字軍が起こる直前の時期において、実質的にはアラゴンの王となっていたらしい。うまくすれば、南仏とアラゴンが組み合わさった、フランスともスペインとも違う有力な地中海国家が誕生していた可能性もあったということだろう。妄想がはかどるところである。しかし、実際にはそうはならなかったわけで。

当時のアラゴンの王ペドロ2世(カタルーニャ語ではペラ2世)は自身の影響力を保護・行使すべく十字軍の総大将シモン・ド・モンフォール(イギリス史において同名の息子が有名)と交渉するも決裂し、決戦にいたった。そしてそのさなかに戦死をとげてしまう。戦いはもちろんアラゴンの敗北。息子のハイメ1世(カタルーニャ語ではジャウマ1世)は当時まだほんの5歳であり、それどころかペドロ2世とシモンとの交渉の経緯からシモンのもとで養育されていた。そこからの本国宮廷による身柄返還交渉だけでも一年を要したうえに、その後も幼君を戴く宮廷での権力闘争では混乱がつづき、影響力を行使する余裕をなくしているうちに南フランス地域は北フランスの王権により征服されることになってしまったようである。こうして経過をまとめているだけでも歴史シミュレーションゲーム的な感覚で残念さを覚えてしまったりもするが、歴史にはそういうタイミングもあろうというところ。アラゴンは後に、シチリアへと勢力を拡大して地中海国家へと肥大していくことにもなるわけなので。


さて、本書の構成は大きく分けて三部構成。カタリ派の信仰やその内情についての記述がひとつ、シモン・ド・モンフォールにはじまりフランスの王の出陣にいたり南フランス地域が北フランス勢力の征服下におかれる十字軍の記述がひとつ、そしてカタリ派の根絶にいたる異端審問についての記述がひとつ。読み物としておもしろかったのは十字軍の箇所だが、その他も興味深い内容であったことはまちがいない。


カタリ派というと、二元論の異端という以外にほとんど知識がなかったのだけれど、知ってみればなかなかに興味深い宗派ではあったようで。本書を読んでいたかぎり、二元論というのはオクシタン地域での広まりにはそれほど関係がなさそうな。むしろ、反教権的な教えが多くの人々に受容される理由であったように思えた。というのも、当時のローマ・カトリックは、11世紀後半にグレゴリウス改革が行われたとはいえ、カタリ派の広まりと同時期の(といっていいのか正確にはわからないけれど)12世紀の後半にはワルドー派が勃興するなど、華美で強権的な教会上層部に対して、清貧や禁欲を基調とした生活を求める層が一定程度いたようにうかがえるのである。

カタリ派において、教皇のような絶対的な権威は(当然ながら)存在しなかった。それどころか、本書で描かれたカタリ派社会においては、垂直的であるよりも水平的な組織網が中核をなしていたように思えるのである。カタリ派における聖職者は完徳者と呼ばれ、肉食や結婚生活など、俗世の汚れから離れた共同生活を送ることになっていたという。しかし世俗から完全に隔離した暮らしを営むのではなく、手仕事で生計を立て、つましい生活の傍ら、信者たちに説教をして教えを広める日々を過ごしていたのだという(しかも、それらの行いは多くが聖書に根拠があったのだとか)。かたや居丈高なカトリックの聖職者、かたやつましいカタリ派の完徳者。似て非なるとはいえ両者ともに救いを説く者であるならば、人間的に信用したくなるのはどちらかという話になるところだったのではないか。(この辺、民衆レベルでのキリスト教の受容史というか教義の受容レベルというのは気になるところであり)

また、オクシタンは対イスラームの最前線であるカタルーニャに隣り合う土地柄。北フランス地域とは違った、異教・異端に対して寛容な空気が醸成されていたことも指摘されていた。(ただし、イベリア半島における異教・異端に対する態度を「寛容」とみなすか、否応なしに衝突や交流が発生するなかで現出したよくもわるくも「現実」とみなすかは人によるようである)

そんなカタリ派に対して、ときの教皇イノケンティウス3世(教皇権の絶頂期として名高い)は当初、現地の聖俗諸侯に取り締まりを命じる勅書を送ったり、現地に特使を派遣して説教を行わせるなどしたようである。しかし、現地の諸侯からは命令をまともにとりあわない者や自分たちの都合のいいように実行する者が続出し(この辺ののらりくらりとした態度や好き勝手してる感じが喜劇的なおもしろさもあったが、それはともかく)、また華美な衣装をまとい居丈高な特使による説教はほとんど功を奏さなかった。そこで持ち上がったのが十字軍なのだという。

なぜそれほどにカタリ派が弾圧されることになったのかについては、キリスト教の歴史がそもそも異端との戦いの歴史でもあったというのはともかく、やはり二元論と反強権主義の影響は疑えないようで。信者個人のレベルでどこまで教義を理解していたかは別にしても、三位一体を否定し、封建社会とも結びついたローマ・カトリックの社会構造を非難する宗派というのは、そもそもの時点で共存不可能なのであり、おおっぴらになった時点で弾圧を受けるのは避けがたかったのだろう。ただし、その教義も根拠はしっかり聖書にあったり、また幼児洗礼を否定していたりなど、世が世がであればプロテスタントの仲間入りを果たしていたのではないかと思えるところもあるので、広まった時代が厳しかったという見方もできるかもしれない。


ともあれ、十字軍の目的はふたつであった。ひとつには異端の撲滅。もうひとつは異端を保護・援助する者への処罰。ただし、結果を見ると前者よりも後者のほうで成果があがった挙だったように思える。一方で南フランス地域は最終的にフランスの王権に組み込まれることとなり、もう一方でカタリ派の信仰は特に衰えを見せなかったようだからである。

十字軍は1209年にシモン・ド・モンフォールを旗頭として開始され、1229年にフランスの王室のもとで終焉を迎えることとなった。その間二十年。主要な人物も数が多いので、本書の内容をもとに要点を整理しておきたい。

(完全に個人的なまとめなのでスルー推奨)

十字軍の最初の将軍は何度も書いているようにシモン・ド・モンフォール。十字軍の宗教的使命に対する熱烈な信奉者であり、優れた能力を有する獰猛な将軍でもあったらしい。また、この十字軍へ志願した背景として、北フランス出身の貴族でありながら、血縁にともなう相続によってイングランドの王の勢力下の地を得ていたものの、英仏の戦争の余波でそれを取り上げられてしまっていたという事情もあったそうである。彼の往時、十字軍は基本的に優勢であった。1218年、戦死。

二代目の十字軍の大将はその息子のアモリー・ド・モンフォール(イギリス史で有名なシモン・ド・モンフォールの兄)。父の死後、十字軍によって獲得した土地ともどもその権利を継承するが、父ほどの軍事的才能には恵まれなかったらしい。継承後、徐々に現地諸侯軍によって趨勢を盛り返され、1224年に敗退。フランスの王ルイ8世に南仏領の支配権を捧げて出御を促す。

フランスの王としては、まずフィリップ2世(尊厳王)。イノケンティウス3世から十字軍を起こすよう要請を受けるも足元を見たかのように無理難題ふっかけて拒否する老獪な王。その代わりではないけれど、ブーヴィーヌの戦いでイングランドの王ジョンを破る。

次いで、三人目の十字軍の総大将となる、その息子ルイ8世。1223年即位。即位前から十字軍に前向きだったカトリックの守護者。1226年に王の十字軍を開始。戦禍に疲弊していた南仏諸侯からは戦わずして降伏する者が相次いだ。同年、北部への帰路にて病没。

王ではないものの、その後に実権を握った者として、その妃ブランシュ・ド・カスティーユ。トゥールーズ伯レモン7世の「本いとこ」(とは? 両者とも母方の祖母がアリエノール・ダキテーヌなので「いとこ」もしくは「従姉弟」でいいかと)。1229年にレモン7世とパリ和約を締結して十字軍を完了させる。レモン7世とは血縁関係があったため同情的だったと記されていたが、和約条件はめちゃくちゃ厳しい気がする。

教皇からはひとりだけ、十字軍の勅を下して本格的なカタリ派弾圧の幕開けを告げた人物、イノケンティウス3世。世俗の権力に勝る教会権力の擁護者であり、その在位は教皇権の絶頂期ともされるが、その一方で欲得まみれの世俗の人間に対する諦念も抱きつづけていたらしい。1198年、教皇着座。1208年の南フランス地域における聖職者殺害事件を契機に十字軍を起こすが、異端への対応は改心を理想とし、戦火の中での殺戮には厳しい批判の書面も送りつけていたとのこと。1216年、逝去。

教皇特使からもひとり。シトー大修道院長アルノー・アモリー。北フランス宮廷で十字軍の宣伝活動を行い、彼らともども南フランスで対異端の活動をくり広げた聖職者。十字軍においては強硬策を主張するタカ派で、教皇の非難を受けながらも現地での判断を貫いた模様。有能ではあるがそれ以上に野心高き人物でもあったようで、異端の弾圧を進めながら政敵を追い落としたり、教会内や世俗的な地位を追求し、晩年のシモン・ド・モンフォールとは対立関係が生じるにもいたったらしい。1224年、死亡。

現地諸侯からは、最高支配者であるトゥールーズ伯レモン6世。のらりくらりとした態度で異端取り締まりを拒否する現地諸侯代表。臣下にカタリ派やユダヤ人を多数抱えるため、統治への影響上、取り締まりは無理に近かったらしい。あまりにもやるやる詐欺を働きすぎたと判断された結果、破門され、十字軍を起こされる。本人は戦争は避けようとしたが、講和しても不利な条件での裁判が待ち受けており、和平の道も厳しい状態に追い込まれていたという。1222年、赦されることなく死没。

次いで、その息子のレモン7世。父譲りののらりくらりとした態度で巧みに責任を回避しながらも最後まで奪われた権利を取り返そうとあがきつづけた不屈の領主。軍を率いてはシモン・ド・モンフォール戦死前後からの巻き返しに寄与するも、フランスの王権による攻勢を受けるにいたり、1229年にパリ和約を締結して降伏。唯一の継承権者である女子ジャンヌとルイ8世の息子であるアルフォンスとの婚約が定められたことから、お家断絶を避けるべく、外交面で神聖ローマ皇帝やかつての敵であったはずのローマ教皇をはじめとした聖俗諸侯を利用してあくどいまでの駆け引きをみせる。しかし結局情勢を覆すことはできず、1249年に病没。領地はフランスの王家に吸収された。

いちばん初めにふれてはいるけれど、アラゴン連合王国のペドロ2世(ペラ2世)も。カタルーニャからプロヴァンス地方にまたがる地中海沿岸帝国を手中に納めかけた王。1212年にラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝軍に大勝して、以後のイベリア半島における対イスラーム戦線でのキリスト教諸侯優位を決定づけた王のうちのひとり。その勝利によって教皇からはカトリックの守護者とも目されたが、異教・異端には「寛容」であった。十字軍の攻撃を受けるトゥールーズ伯を助けるべく南フランスに出陣し、あわよくば実質的な宗主権を確固たるものにしようとするも、シモン・ド・モンフォールとの交渉は決裂し、1213年、ミュレの戦いで戦死。

(以上、スルー推奨)

そうした人物たちが入り乱れた十字軍によってあげられた成果は、主に政治的なものであった。開戦前の南フランス地域は「フランス王国の南部であると同時に、アラゴン王国の北部でもあり、さらにはイギリスや神聖ローマ帝国に属する土地もところどころにあり、さまざまな主従関係が複雑に隣り合ったり、混じり合ったり」(165ページ)していた。そのうちのアラゴンの影響力が排除され、ラングドック地方が名実ともにフランスの王権下に組み込まれたのである(プロヴァンスやアキテーヌ地方はそれぞれにまた別の経緯をたどるが、最終的にはフランス王権下に組み込まれることになる)。これによって、フランスの王権は地中海への出口をその領土として有することになった。

ここで面白いのは、十字軍当初の複雑な勢力図の中心にいたのが誰あろうトゥールーズ伯レモン6世だったことである。名目上、彼はフランスの王に臣従している身ではあった。しかしその一方で、プロヴァンス地方においては神聖ローマ帝国の封臣(プロヴァンス辺境伯)でもあった。また婚姻関係においてはアラゴンの王ペドロ2世とは義兄弟の関係(ペドロ2世の妹レオノールと結婚。レモン7世もその妹サンチャと結婚)であり、イングランドの王ジョンとも同様であった(息子レモン7世を産んだのはジョンの姉ジョーン・オブ・イングランド。1199年、死別)。そうした複雑な関係が入り組む渦中において、独立君主のような立場を築きあげていたのがレモン6世なのだという。これはある種の梟雄とも呼べる人物なのではないだろうか。

そんな人物らしく、巨大な権力である教皇から、自身も登用している異端の取り締まりの要請を受けながらものらりくらりとかわしてみせる様子はさながら喜劇のようで、愉快ですらありました。荒れ狂う十字軍の猛威に苦しみながらも、なんとかそれをしのぎ巻き返しを図ろうとする姿も、現地の領主の意地を見せてくれるようでもあり。

ただ、それでも十年を超える年月にわたって十字軍の戦禍にさらされつづけるというのはきわめて過酷なことであったようで、フランスの王出御の報を聞いた現地の人々の反応は想像に余りある。

「モンフォール父子の指揮する十字軍に十五年もの長きにわたって痛めつけられてきたラングドックの人々が、新たな戦争を回避したいと願うのはむしろとうぜんであった。甚大な被害を受けたうえに出費がかさみ、すっかり疲弊してしまった経済、財産を没収され、身内の生命まで奪い取られた多くの領主たち、「地下潜伏」(faidiment)を余儀なくされた騎士たち。言うまでもなく、虐殺、戦闘、火刑台もあった。そのうえ貧困化によって強盗が多発し、地方全体が無法状態に陥った。国全体が、少なくともそのほとんどが、すっかり戦意を喪失し、厭戦気分に陥っていたことは明らかである」(428ページ)

フランスの王権による十字軍に対しても、一部では抵抗が見られたが、それも以前のような組織だった団結のもとでは行われなかったらしい。実際、トゥールーズにおいては、さらなる軍事的支出を積み重ねてでも抵抗をつづけようとする動きに対して、経済的に壊滅状態に陥っていた市参事会の有力者らとの間で分断が発生していたようである。

このように、十字軍の戦火は南フランス地域を困窮におちいらせるものであった。それはあたかもイスラーム側からみた十字軍の姿のようで、「十字軍」の輝かしいイメージとは裏腹のなんとも割り切れない感情を抱かせてくれるものでもあった。


そして、物理的な面で南フランス地域の人々を追いつめたのが十字軍であったなら、精神的な面で追いつめたのはその後に行われた異端審問であった。

異端審問。そこでは拷問や火刑に代表されるような身体的な痛めつけに目が向けられがちであるが、著者によれば真におそろしいのはむしろ心理的な効果であったようで。聞き取り調査や告発の強要、密告の奨励、尋問、拷問などを通して、南仏社会に潜む異端があぶりだされ、断罪されていく。その過程は決して想像されがちなほどに残虐だったわけではないが、それ以上に何十年にもわたる審問活動によって、異端に対して寛容であった社会の思想を根底から変化させてしまったことにその成果があるのだという。同地域において最後にカタリ派信者が火刑台送りになったのは1321年のことであり、1324年にはアラゴンでも最後の終身刑が下された。それらをもって南仏のカタリ派は根絶されたということができるだろう。

とはいえ、これも当初はかつての教皇特使による説教や取り締まり依頼と同様に、ほとんど効果を出せなかったらしい。十字軍に征服されたといってももともと異端に寛容な風土であり、十字軍時代に培われた抵抗のネットワークもあって、信者たちはひそかに活動をつづける完徳者(カタリ派の聖職者)を隠密裏に匿い、援助し、信仰を維持しつづけていたのだという。法廷で告発を強要されてもすでに死んだ者や逃亡した人の名をあげる者が跡を絶たなかったり、聞き取り調査においても有力者からの指示のもとに口をつぐむ者が多発したんだとか。この辺は、十字軍以前からののらりくらりとした抵抗を思わせる喜劇的な部分ではあったでしょうか。

ただ、それならばと審問官は別の手を考えたようで。当初のターゲットであった完徳者から、次なるターゲットとして彼らの支援者である一般信者へと、追及の相手を変化させたらしい。完徳者を追いかけても組織的にそれを匿われては手が出せなくなってしまうが、その組織網ごと異端およびその幇助者として罪に問うてしまえば、異端のネットワークは瓦解し、支援を失った完徳者も早晩立ちいかなくなるという寸法である。南フランス地域の異端弾圧においてはこれが効果的であったらしく、カタリ派聖職者の最後の拠点であったモンセギュールの陥落と合わせ(どちらも1250年前後くらい)、その後着実に異端は消滅へと向かっていったようである。

南仏における異端審問。それは世代を超えて爪痕を残す、長く陰鬱な思想統制の時代であったといえるだろうか。


以上、そんな感じの内容の750ページでした。当時の南フランス地域において、政治的にも宗教的にも大きな影響を残し、けれど歴史はそれらを過去のことして次の時代へと続いていく。あらためてまとめてみてもやはり一幅の物語を味わうような醍醐味がありました。特に十字軍の流れ。使命に燃える英雄がいて、野心もあらわな奸雄がいて、その狭間で自身の利益を最大化しようともくろむ抜け目のない者たちもいて、たいへんに面白かった。彼らを生み出した当時の社会事情や、そこから起こった宗派対立の事情も興味深く、ますます関心が深まってくる一冊ではありました。このテーマに興味がある方にはぜひにとおすすめしたい決定版の通史ではないでしょうか。


不満点をあげるとすれば、地図がわかりにくかったことでしょうか。ひょっとして原書が左開きの本だったのをそのままの順番で右開きの邦訳版に収録しているのでしょうか? そのせいか、位置的に東側にある地域が見開きの左側にきて、西側にある地域が見開きの右側にきており、直感的に把握しづらくてかなわなかったです。

もう一点、誤字指摘としては、人名索引にて「レモン=ベランジェ五世(プロヴァンス伯)」として記載されている人物。本文中で何度か「プロヴァンスのカタルーニャ伯」と記されてますが、「カタルーニャ(系)のプロヴァンス伯」の誤りかと。


posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 23:36| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月31日

迷走するイギリス――EU離脱と欧州の危機

迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機
迷走するイギリス―― EU離脱と欧州の危機

慶應義塾大学出版会 | 迷走するイギリス | 細谷雄一

親EU・反EUの姿勢をイデオロギー的かプラグマティズム的かで分ける捉え方。興味深い。(本文中で定義されていたわけではなく個人的な理解にすぎないが)イデオロギー的な親EUは理念共感型であり、プラグマティズム的親EUは実利重視型であり、イデオロギー的な反EUは自国主権に統制が加えられようとすることへの反発型であり、プラグマティズム的な反EUは移民や域内への拠出による国民経済への影響感を嫌悪する型であり、とでもなるだろうか。

それを念頭にイギリスとEU(それ以前のEEC時代からも含めて)の関係を見ていくと、イギリスのヨーロッパ統合運動への参加はごく初期をのぞいてほとんど常に経済的な実利重視の態度によるものだったようで。そこからくる理想主義への懐疑姿勢だったりで厄介なパートナーとしての地位も築きあげられていったのだけれど、それでもヨーロッパにおける一大経済国としてほかの加盟国と共同で統合への道筋を描いていっていた国家なのであって。それがイデオロギー的な反発が拡大していくことになったのは、マーガレット・サッチャー首相の時代。EU(当時はEC)が市場統合からさらに政治的社会的な統合へと深化していく方向性を打ち出しはじめたことが原因になったという。加盟各国の法をも規範する欧州的な憲法典、各国政府の政策をも規定する超国家的な統一政府、それら国家主権に対する束縛への拒否反応がイギリスではひときわ強かったらしい。大陸諸国とは海を隔てた島国であり、言語的にもアメリカとのつながりが強いのがイギリスであり、根本的なところまでは価値観を共有できなかったということなのかもしれない。それでも統合市場における経済的な利益の手放しがたさからその一員でありつづけてきたものの、着実に統合への道を進めようとするEUへの反発を政権内部でも抑えきれなくなった結果が2016年に行われた国民投票だったということだろうか。もともとイギリスは対外関係的に、対米重視・対欧州重視のはざまでかじ取りを迫られる部分があったようなので、EUべったりになりきれなかったところもあるのかもしれない?

また、昨今のイデオロギー的な反EU思潮の広がりにはイギリス国内のメディアが果たした役割も小さくないようで。イギリスの人々が日頃から目にする新聞の一部(大衆紙においても高級紙においても)で連日のようにEU懐疑の論陣が張られることで、もともとEUへの関心がうすかった国民にも反EU的なイデオロギーが浸透していく要因になったのだという。この辺、イギリスのメディアは日本と比べるとかなり政治的なスタンスをはっきりさせてると思う。2016年の国民投票に際しても、離脱賛成派・反対派ともども、メディアも含めてかなりの論陣が張られていたことと思われる。ただ、その賛成派の論陣は、本書以外でも書かれていることながら、客観的なデータよりも読者・聴衆の感情に訴えかけるメッセージが中心だったようなので、それはまさにポピュリズムそのものとしか言いようがないところ。けれどその投票で実際に勝ってしまったのが離脱賛成派であって。一部のメディアではポピュリズム対アカデミズムのような論調を見かけることもあるけれど、そんな構図が成り立ってしまうほどにポピュリズムが力を持ってるのが現在のイギリスなのだろう。そんなイギリス社会にも興味があるところではあるが、これ以上は話が逸れるのでそれはともかく。

現実時間ではいよいよ離脱の日が近づいているにもかかわらず、いまだイギリス・EU間における離脱後のための協定は結ばれていない。離脱派内部でも意見にばらつきがあったり、離脱反対派は二度目の国民投票を求めていたりと、EU離脱問題に限ってもタイトル通りの迷走がつづいているイギリス政治。現在の争点は何か、その背景にはある問題はどういったものか、そしてこの問題の先にどのような展望が開けていくのか……。興味の尽きないところです。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 20:32| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年01月09日

検証 長篠合戦

検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)
検証 長篠合戦 (歴史文化ライブラリー)

検証 長篠合戦 - 株式会社 吉川弘文館 安政4年(1857)創業、歴史学中心の人文書出版社

『長篠合戦と武田勝頼』においてはどちらかというと騎馬兵の合戦における立ち回りがクローズアップされていた印象があるが、こちらでは当時の鉄炮の運用についてより詳しく記述されていた印象。二冊そろって当時の合戦の姿というものをより正確に描きだそうとする研究は、その一部をあちらこちらでかじっていたとはいえ、まとめて読むと古いイメージで固定されていたのが否めない身には新鮮で面白かったこと。とはいえこれでもまだ研究途上のようですし、軍事史的観点から見る戦国時代というのもなかなか興味深いテーマではありそうで。

本書を読んでいて浮かびあがってくるのは、当時の鉄炮の使い勝手の悪さでしょうか。後代のあと知恵をもってすれば、鉄炮の採用は時代の変革であり、いち早くそれに手を付けるのは先見の明の表れであったのだろうなんて思えたりもするけれど、どうもそれほど決定的なアドバンテージがあったようには読み取れないのですよね。まず調達するだけでコストがかかる。鉄炮本体の国産地はかなり限られているため、輸入分を合わせても数をそろえるのには大名直属の鉄炮衆だけでなく家臣団からもかき集める分が欠かせなかったようで。また、本体のほかに弾丸や火薬などの消耗品も必要になってくるけれど、これも必ずしも勢力圏内で賄いきれるものではないので輸入して取り寄せなければならないものも発生する。しかも、それらは揃えるだけ揃えてあとは合戦のときだけ持ち出せばいいかというとそんなことはなくて、鉄炮衆の質や練度の向上のための訓練が重要になってくるため日常的に消費する分の調達も欠かせなくなってくる。実戦投入の前段階からしてやたらとリソースを要求されるのが伝わってくるんだけど、その上そうまでして鉄炮衆を配備しても、実戦の戦況に与えられる影響はそれほど決定的ではなかったりするようだからたまらない。よく言われるように連射性に難があるので射撃の合間には隙が生じるし(そのために多段撃ちがあるにはあるけれど)、そもそも雨が降れば使えないし……。鉄炮の採用に有用性はあるけれど、実戦での効果は局面的なものでしかなかったのではないかとも思わされる。けれどそれでも戦国時代の各勢力のもとで鉄炮が普及していったのは、矢合戦よりも遠距離から戦端を開ける有効射程の長さを有する都合上、敵がそれを持つからには、こちらも持たないことには一方的な戦とならざるをえなくなってしまう事情があったからではないかとも思ったり。

長篠の戦いの主要勢力の主である武田氏と織田氏にとって、鉄炮に関してのいちばんの相違は、地理的な両者の領国の位置がもたらす鉄炮本体や玉薬の調達しやすさにあったといえるだろうか。輸入原料が存在する関係上、西高東低な傾向が現れるのはある程度しかたのないことだったろうけれど、三千挺ともいわれる鉄炮衆を打ち崩すことができずに敗北を喫した長篠の戦いの結果を見ると、地理的な資源へのアクセス性が勝敗に与えた影響は無視できなさそう。

合戦における武田勝頼の敗因としては、そのほかにも鳶ヶ巣山砦の陥落などがあげられていたけれど、そのなかでも個人的には敵軍情報の誤認がいちばん大きかったのではないかと思えたり。鉄炮の装備云々以前に単純な兵力数の段階ですでに倍ほどの差があったにもかかわらず、それに気づくことなく思ったよりも小勢だぞとあなどってしまっていたようなので。諜報の失敗ともいえそうだし、裏返せば信長側による欺瞞作戦の成功ともいえそうで。そしてどちらにせよ、これは純粋に勝頼自身の決断の失敗なのであったという。父信玄から武田の負の遺産を受け継いだ悲劇の将としての勝頼像を否定する内容でもあるでしょうか。まあでも著者の平山先生はこの後著『武田氏滅亡』でも述べていたと記憶しているように、この合戦を滅亡の原因としてはいないのだけれども。

その他、鉄砲玉の成分の解析から東南アジアにまで広がる当時の貿易事情が見えてくるのは興味深かった。ここ、もっと深堀りした本はないだろうか。

そして、ポルトガル船からの鉄炮伝来以前の中国からの鉄炮の導入をさらっと既知の事実のごとく記す記述に衝撃を受けていた。いやまあそんな説もあるとかないとか見かけた記憶もあったように思うけど、自分が学校で習ったのはたしか1543年説だったっけ……。研究の進歩による新説との遭遇には驚かされるばかりですね。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 03:31| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月26日

兵農分離はあったのか

兵農分離はあったのか (中世から近世へ)
兵農分離はあったのか (中世から近世へ)

兵農分離はあったのか - 平凡社

もともと自分が「兵農分離」という言葉に持っていたイメージとしては、冒頭でもあげられていたような、軍隊の専業化、それによる強い軍隊(信長・秀吉勢力)、そして江戸時代の士農工商へとつづいていく階層分化の走り、という感じだったでしょうか。

けれどこの本によれば、歴史学における兵農分離論が含む範囲はもっと広いという。兵の専業化のほかに、武士の城下町集住、百姓の武器所持否定などといった論点が含まれるという。また、武士と百姓の身分分離に関しても、土地所有形態における論点や身分規定に関する論点が存在しているという。専業化に関しては、ここ数年で読んだいくつかの本からイメージを修正する必要を感じており、それがこの本を読んでみるきっかけにもなったのですが、それにしても思っていた以上に広範な議論のあるテーマのようで。織豊期にはじまる近世とそれ以前の中世との間を断絶ととらえるか、それとも連続としてとらえるかという時代区分論まで関わってくる奥の深い議論であり。とても面白い一冊でした。

タイトルで立てられている問いに対する著者の答えとしては、ひと言で言って「現象としてはあったが、政策としてはなかった」とでもいうところになるのだけど、それについてもなかなか興味深い議論がなされている。刀狩りや太閤検地など、身分統制を目的にしたとされてきた(そういうイメージで記憶されている)政策も、その法令の背景などと合わせて読み解いていくと、実際の目的は別にあったのではないかということがわかってくるという。また、城下町への集住も、詳しくみていけばそこまで徹底されていたものではないのだという。つまり、近世において兵農分離と呼称できる状態は進行してはいたが、それを目指した政策は存在せず、それどころかその進行度合いも各地でまちまちであったということになるようで。

なんとなくすっきりしない気分が残るのは、あくまで「(政策としては)なかった」でしかないのであって、それじゃあ「(そういう状態としての)兵農分離はあった」とも言えてしまうところであって。とはいえまあ、明解な結論が出ていないからこそ、議論が現在進行形なテーマでもあるのでしょう。なにより、戦国時代から織豊期にかけての時代に対するイメージのいいアップデートができたように思います。

個人的にいちばん面白かった部分は、第一章・第二章あたりの、戦争に参加する兵士たちの身分についての議論の紹介。信長や秀吉以外の戦国大名たち(例として北条氏・武田氏)の間でも百姓と区別しうる層が兵士たちの中心であったという、ここ最近の疑問にずばり答えてくれる内容で、たいへん面白かったです。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 11:18| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月22日

あだ名で読む中世史 ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる

あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる
あだ名で読む中世史―ヨーロッパ王侯貴族の名づけと家門意識をさかのぼる

八坂書房:書籍詳細:あだ名で読む中世史

名前をテーマにした中世西ヨーロッパの歴史の本。カール・マルテルやピピンのあだ名にまつわる話から筆が起こされ、古代ローマ式の姓名システムが廃れて個人名のみの時代である中世ヨーロッパの人たちの間で姓が誕生していく過程を概観し、中世の王侯貴族たちの家門意識について論じられる。偶然にも読む時期が重なった『歴史人名学序説』と、似たテーマでありながらところどころで説明に違いが見受けられた気がするのは、あちらの著者の専門がスペインであるのに対してこちらはどうもドイツっぽいからか。

この本で面白かったのは、副題にもあるような、フランクの王侯貴族たちの名づけと家門意識に関する論の部分。カロリング家、カペー家、オットー家、ザーリアー家が取り上げられ、その名づけに対して検討がくわえられる。それによれば、個人名のみの時代における王侯貴族の家門意識は父の世代と祖父くらいまでの広がりの血縁集団であり、偉大な父祖の血に連なる出自を誇示するため、彼らはその名にあやかった名づけをし、それによって同じ名前の人物が代々何人も出現することにもなったという。カロリング家とはすなわち、カール大帝をはじめとした何人もの「カールたち」を輩出した一族のことなのであった。

また、彼らの家門意識は必ずしも父方にあったわけではなかったという。母方のほうが声望の高い一族である場合、そちらの父祖の名にあやかった名づけが優先されていた事例もまま見られる。つまり、母方の一族の名にあやかることで、より声望の高い一族への所属意識を表明することがあったのだという。時あたかも姓の誕生以前の社会であり、そこにおいて親族集団とは同族意識を共有するグループであった。そして、そうであればこそ、親族集団は可変的な枠組みであったのだという。

その他、中世におけるあだ名文化の誕生は初期の人物の生存時とはまったく重ならず、後代になってどこからか発生したあだ名づけが、歴史的な伝播や淘汰を経て今日知られるようなものに固定されていったのだというのは、これもこれで雑学的なおもしろさはありつつも、実際に何人かの人物についてその定まる過程を簡単に眺めるのはまた面白い記述ではありました。

そんな感じで、主に中世初期のフランクの王侯たちの話が楽しい一冊でした。
ラベル:八坂書房 岡地稔
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2018年12月15日

歴史人名学序説 中世から現在までのイベリア半島を中心に

歴史人名学序説―中世から現在までのイベリア半島を中心に―
歴史人名学序説―中世から現在までのイベリア半島を中心に―

歴史人名学序説 ≪ 名古屋大学出版会

(※読んだ記憶をもとにして書いてるので、実際の内容とは違うことを書いてる部分もあるかもしれません。)

公刊された各種史資料をもとに、人名のあり方、その傾向や変遷を、文化的・歴史的その他さまざまな側面から検討していく学問、歴史人名学。なかでも本書は、著者の専門とするスペインの位置するイベリア半島の中世から現在までを中心として、フランスやイタリア、イギリスも含めてより広く西ヨーロッパを俯瞰しようと試みる一冊。

たいへん興味深い一冊であり、面白かった。

記述の内訳としては、分量的に中世が半分、近世以降が半分といったところ。その概要としては、古代ローマ式の「名+族名+家名」が衰退して単一名となった中世初期の状態から、出身地や父の名などを付した補足名の登場を経て、父から子へと代々受け継がれていく姓が定着していき、近世以降ではスペインにおいて特徴的な第一姓と第二姓が合わさった複姓の登場およびその普及の流れを追う。また、その間には、これもスペインで特徴的な、使用される姓や名の縮減や集中の過程もあつかわれる。

思えば人名というものには単なる呼称という以上の意味合いを考えたこともなかったんだけど、どのような経緯でそのような形態になっていったのか、それを知ると、これもまた歴史のひとつの大きな題材なんだなと気づかされる。現在において当たり前のように使われている姓名から中世にまでさかのぼるそのルーツをたどるのは、またアラブ圏や広く西ヨーロッパにまたがる伝播の過程とも合わせて、人の文化の長い歴史に思いを馳せるようでたいへん面白い内容だった。

個人的には中世スペイン史に関心があるのでそのあたりの内容についてもう少し触れていく。「スペイン」という国家がまだ存在せず、中小国が割拠していた中世の半島情勢と呼応して、姓名システムの伝播に関しても一様な推移は見られない。しかし、おおざっぱには半島の中西部と東部に分けられるという。これはすなわち中世におけるカスティーリャ王国とアラゴン連合王国に該当する地域である。レコンキスタの進展にともなって、西半分ではレオン(レコンキスタのルーツともいえるアストゥリアス王国が都を遷してレオン王国と名を改めた地)やガリシア(巡礼で有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラの位置する地域)などの北西部からカスティーリャ地域へ、さらにそこから南部の再征服地域へと伝わる流れが読み取れ、東半分ではピレネー山麓のナバーラやアラゴンからエブロ川の下流地域へ、そこからこちらも南部の再征服地域へと伝わる流れが読み取れるのだそうで。こうしてみると、姓名システムの伝播からでも半島情勢の推移がうかびあがってくるものがあり面白い。その一方で、目下スペインで耳目を集めるカタルーニャの独自性についても再認識させられるものがある。半島東部としてくくられる地域のなかでカタルーニャにおける伝播の推移も述べられるのだが、ナバーラやアラゴン地域よりもむしろ南仏のオクシタニア圏との共通性が見て取れる。

父称の普及経緯についての論もまた面白い。補足名としての父称には異教徒の境界地帯であるイベリア半島らしくイスラーム圏からの影響を推測しながらも、それが父から子へと代々伝わる姓へと転換していくのは西ヨーロッパのなかでは遅いほうだったとし、その原因を封建制の未成熟さにみるのは西ヨーロッパの特殊地域としてのスペインらしさを思わせる部分。父称がなぜ発達したのかという経緯に関して、それは父とのつながりを強調するためである。すなわち、父の有する土地や財産の権利を受け継ぐ者であり、さらにその父称が姓として代々受け継がれていくと、その相続される権利がその家に代々伝わっていくものであることを主張することにもなる。それに対して、中世におけるスペインはキリスト教勢力圏の拡大の歴史でもあり、また植民や開拓民の募集によって新規に土地を獲得した人々を数多く生み出した時代でもある。その地が代々受け継がれる土地になっていくのにはまだ少しの時間が必要であった。また、継承のシステムにおいても、男子だけでなく女子による継承を認める慣習が伝来する地域が多数存在しており、それもまた父方の姓を代々継承していく姓名システムの普及を遅らせることになったという。そしてここでもカタルーニャは例外的であり、11世紀の「封建革命」期に一気に父称の普及が進むという。

そして、中世からすでに看取でき、現在においてはヨーロッパでひときわ目立つ傾向となっているスペインの姓名に関する特徴が、使われる姓・名の種類の少なさであるそうで。姓については特に、第一姓・第二姓とふたつの姓があるにもかかわらず、スペイン人の姓の数は少ないのだという。これは、たしかに言われてみればそんな気はしなくもないようなというところで、これはさまざまな要因が絡み合った結果のようなのだけど、それはともかく、実例としてガルシア・ガルシアとかフェルナンデス・フェルナンデスなんて姓が検索すればふつうに出てきたりするのはおもしろくもあり。

そんな感じで、そもそも中世初期って姓がなくて名前だけで個人の識別してたのかとか、そんなレベル知識から読みはじめて、中世から現在にいたるスペインの歴史に思いをはせながら、最後まで興味深く読むことができた。たいへん面白い本でした。関連書も読んでみたい……と思ったのだけど、参考文献を見るかぎり、すくなくとも日本語の文献はなさそうで? その点はやや残念な気もしますが、ともあれ中世ヨーロッパの歴史に興味ある人にはぜひともオススメしたい本ではありました。
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2018年11月08日

分解するイギリス――民主主義モデルの漂流

分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)
分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)

筑摩書房 分解するイギリス ─民主主義モデルの漂流 / 近藤 康史 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480069702/


第二次大戦後のイギリス政治の潮流を、「安定→合意→対立→分解」という図式でEU離脱の国民投票直後まで俯瞰する現代政治史の一冊。経緯に沿った記述は出来事の流れをつかみやすく、そして現在のイギリス政治の問題点をわかりやすく提示してくれる良書。

本書によれば、戦後から七〇年代くらいまでにかけては政権交代を繰り返しながらも二大政党のどちらも共通した理念のもとに政府を運営してきたが、小さな政府を標榜するサッチャー政権の頃を境にしてイギリスの合意政治は崩壊したという。「ゆりかごから墓場まで」ともいわれた福祉国家路線からの離脱がすすめられていくなか、左派と中道左派による党内対立が起きていた労働党では、九〇年代になってトニー・ブレアの登場によって巻き返しが図られることになった。ブレアのリーダーシップのもとに、ネオ・リベラル化した保守党に対して中道路線の「第三の道」を打ち出すことで労働党は広範な支持を集め、政権に返り咲くことになった。野党となった保守党は新自由主義的な路線をやわらげ思いやりのある保守主義としての政策案を打ちだすようになった。ここに、サッチャー路線を一部引き継ぎつつ修正を図っていく新たな合意政治の形態ができあがったとする。

しかし、二大政党による競争が存在しながらも前政権からの連続性が保たれていくイギリス合意政治の特徴は、その一方で一定程度において二大政党の近似化を招くものであり、そこから取りこぼされる有権者の層を生み出し拡大させていくことにもつながった。EUとの関係性、スコットランドを筆頭にしたナショナリズムの高まりによって党内や支持者層でも意見の分裂が目立つようになり、またブレア、ゴードン時代の労働党政権後半に醸成された政治家への不信感からエスタブリッシュメントへの反発が形成されていった。そこにキャメロン政権での緊縮政策での打撃が加わって、EU離脱を問う投票での労働者階級を中心にした離脱賛成多数が成立したと本書では述べられている(と思う)。

高安健将著『議院内閣制――変貌する英国モデル』(中公新書)の参考文献としてあげられていた一冊だが、あちらは制度的な構造を中心にした記述であり、それに対してこちらはより歴史的な経緯を中心にした叙述。背景的な知識を補完する意味で有意義な本であり、そしてなにより読み物としてとても面白かった。特に、左右の政策の接近は政権交代を容易にするが、それゆえに政府への不満の受け皿としての野党の機能を低下させることにもつながるというのは、これはケース・バイ・ケースではないかとも思うけど、現在の情勢を考えるには見落とせない一面かもしれない。

本の内容紹介はできるだけ本書の記述をもとにしたつもりだが、もしかしたらこの前後に読んだ前述の『議院内閣制』や、水島治郎『ポピュリズムとは何か――民主主義の敵か、改革の希望か』(中公新書)、Andy Beckett, "The death of consensus: how conflict came back to politics", https://www.theguardian.com/politics/2018/sep/20/the-death-of-consensus-how-conflict-came-back-to-politics などの影響があるかもしれない。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 19:42| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月14日

動物になって生きてみた

動物になって生きてみた -
動物になって生きてみた -

動物になって生きてみた :チャールズ・フォスター,西田 美緒子|河出書房新社

この作者は変態ですわ。まぎれもない変態。

野生の動物の生態を描きだすために、その動物を観察する。それはわかる。けどそれにとどまらず、その観察や調査をもとにしたうえで、実際にその動物の野生の生活を実体験してみる。誰がそこまでやろうと思うか。

たとえば森に棲むアナグマのように地面を掘って穴ぐらをねぐらにしてみたり、また都会に棲むキツネのようにゴミ捨て場で食べ物を漁ったり、動物にとっての毛皮の代わりである人間の衣服については基本的にそのままではあるものの、それも時には人目がないのを確認して脱ぎさって世界を体感してみたり。こうして一貫した趣旨でまとまった文章にされないと頭のおかしい人としか思えないような行動をとりながら、いや、わかっててもやっぱり変態と思ってしまう体験をくりかえしながら、人間の目線からではない、その動物の感覚を通した世界の情景を再現しようと試みる。これが抜群に面白いんですよ。擬人化された動物の物語や、映像を通して見る動物紀行などは、それはそれで面白さがある。けれども、「動物になってみて」そこから見えてくる世界というのは、それらとはまた違った、おおいなる驚きに満ちている。

人間と動物は、まず目線の高さが違う。試しに自分のひざくらいの高さで周りの景色を写真に撮ってみると、それだけでも普段見るものとは違う風景が現れる。なんでもない障害物が大きな壁に見えたり、距離が縮まることで地面の存在がより意識されるようになるかもしれない。

また、人間は感覚器官のなかでも視覚からもっとも多くの情報を得ているが、動物の場合は必ずしもそうとは限らない。嗅覚が発達している動物もいれば、聴覚が発達している動物もいる。それらを完全に再現するのは不可能であるけれども、普段それほど意識していないだけで、人間自身の嗅覚や聴覚、触覚などでも、彼らの世界をある程度体感することは可能であるらしい。たとえば、地面から立ちのぼる熱気や吹き抜けていく風などから森の空気の流れを感じ、それに乗って漂ってくる匂いから周りの風景を脳内に構築したり。それはあくまで人間の感覚の範囲内ではあるものの、まさしく異なる感覚の持ち主になってみようとする試みで、未知の世界をのぞかせてくれるようなぞくぞくとした喜びを感じさせてくれるものがあって。

それらすべてが動物になってみたからこそわかる、というわけではないとしても、それらを動物の感覚を通して描くこと、描こうとすることは、それ自体がひとつの叙述の挑戦であり、人間にとってのひとつの新たな世界観の提示にほかならないと思うんですよね。そしてなにより、それらの描写が面白おかしくて、読んでいてとても楽しい。これはすごい本だと思いますよ。

動物になって生きてみるということと、人間社会の一員として生きることは根本的にあいいれないし、作者の体験は一見すると頭のおかしい人のようにしか思えないかもしれない。でも、動物の生態についての理解を深めること、それらをつきはなした描写によってではなくより内側から感覚的に理解するために、おおいに価値のある一冊だと思います。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 14:18| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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