2019年02月20日

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問

異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 (講談社選書メチエ)
異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問 (講談社選書メチエ)

『異端カタリ派の歴史 十一世紀から十四世紀にいたる信仰、十字軍、審問』(ミシェル・ロクベール,武藤 剛史):講談社選書メチエ|講談社BOOK倶楽部

南仏カタリ派の歴史――あるいは南フランス地域がいかにして北フランスに統合されることになったか、という感じの本であった。

とはいえ、中世スペイン史への興味から本書を手に取った身としては、南仏カタリ派の歴史――あるいは南フランス地域はいかにしてアラゴン連合王国の手中からすり抜けていったか、という感じの本でもあった。

というのも、『歴史人名学序説』の感想でも軽くふれたように、現在のスペインの一部をなしているカタルーニャは歴史的に南仏オクシタン地域との結びつきが強かったのである。しかも、その地の宗主権を有していたのは、名目的には常にフランスの王であったが、アルヴィジョワ十字軍が起こる直前の時期において、実質的にはアラゴンの王となっていたらしい。うまくすれば、南仏とアラゴンが組み合わさった、フランスともスペインとも違う有力な地中海国家が誕生していた可能性もあったということだろう。妄想がはかどるところである。しかし、実際にはそうはならなかったわけで。

当時のアラゴンの王ペドロ2世(カタルーニャ語ではペラ2世)は自身の影響力を保護・行使すべく十字軍の総大将シモン・ド・モンフォール(イギリス史において同名の息子が有名)と交渉するも決裂し、決戦にいたった。そしてそのさなかに戦死をとげてしまう。戦いはもちろんアラゴンの敗北。息子のハイメ1世(カタルーニャ語ではジャウマ1世)は当時まだほんの5歳であり、それどころかペドロ2世とシモンとの交渉の経緯からシモンのもとで養育されていた。そこからの本国宮廷による身柄返還交渉だけでも一年を要したうえに、その後も幼君を戴く宮廷での権力闘争では混乱がつづき、影響力を行使する余裕をなくしているうちに南フランス地域は北フランスの王権により征服されることになってしまったようである。こうして経過をまとめているだけでも歴史シミュレーションゲーム的な感覚で残念さを覚えてしまったりもするが、歴史にはそういうタイミングもあろうというところ。アラゴンは後に、シチリアへと勢力を拡大して地中海国家へと肥大していくことにもなるわけなので。


さて、本書の構成は大きく分けて三部構成。カタリ派の信仰やその内情についての記述がひとつ、シモン・ド・モンフォールにはじまりフランスの王の出陣にいたり南フランス地域が北フランス勢力の征服下におかれる十字軍の記述がひとつ、そしてカタリ派の根絶にいたる異端審問についての記述がひとつ。読み物としておもしろかったのは十字軍の箇所だが、その他も興味深い内容であったことはまちがいない。


カタリ派というと、二元論の異端という以外にほとんど知識がなかったのだけれど、知ってみればなかなかに興味深い宗派ではあったようで。本書を読んでいたかぎり、二元論というのはオクシタン地域での広まりにはそれほど関係がなさそうな。むしろ、反教権的な教えが多くの人々に受容される理由であったように思えた。というのも、当時のローマ・カトリックは、11世紀後半にグレゴリウス改革が行われたとはいえ、カタリ派の広まりと同時期の(といっていいのか正確にはわからないけれど)12世紀の後半にはワルドー派が勃興するなど、華美で強権的な教会上層部に対して、清貧や禁欲を基調とした生活を求める層が一定程度いたようにうかがえるのである。

カタリ派において、教皇のような絶対的な権威は(当然ながら)存在しなかった。それどころか、本書で描かれたカタリ派社会においては、垂直的であるよりも水平的な組織網が中核をなしていたように思えるのである。カタリ派における聖職者は完徳者と呼ばれ、肉食や結婚生活など、俗世の汚れから離れた共同生活を送ることになっていたという。しかし世俗から完全に隔離した暮らしを営むのではなく、手仕事で生計を立て、つましい生活の傍ら、信者たちに説教をして教えを広める日々を過ごしていたのだという(しかも、それらの行いは多くが聖書に根拠があったのだとか)。かたや居丈高なカトリックの聖職者、かたやつましいカタリ派の完徳者。似て非なるとはいえ両者ともに救いを説く者であるならば、人間的に信用したくなるのはどちらかという話になるところだったのではないか。(この辺、民衆レベルでのキリスト教の受容史というか教義の受容レベルというのは気になるところであり)

また、オクシタンは対イスラームの最前線であるカタルーニャに隣り合う土地柄。北フランス地域とは違った、異教・異端に対して寛容な空気が醸成されていたことも指摘されていた。(ただし、イベリア半島における異教・異端に対する態度を「寛容」とみなすか、否応なしに衝突や交流が発生するなかで現出したよくもわるくも「現実」とみなすかは人によるようである)

そんなカタリ派に対して、ときの教皇イノケンティウス3世(教皇権の絶頂期として名高い)は当初、現地の聖俗諸侯に取り締まりを命じる勅書を送ったり、現地に特使を派遣して説教を行わせるなどしたようである。しかし、現地の諸侯からは命令をまともにとりあわない者や自分たちの都合のいいように実行する者が続出し(この辺ののらりくらりとした態度や好き勝手してる感じが喜劇的なおもしろさもあったが、それはともかく)、また華美な衣装をまとい居丈高な特使による説教はほとんど功を奏さなかった。そこで持ち上がったのが十字軍なのだという。

なぜそれほどにカタリ派が弾圧されることになったのかについては、キリスト教の歴史がそもそも異端との戦いの歴史でもあったというのはともかく、やはり二元論と反強権主義の影響は疑えないようで。信者個人のレベルでどこまで教義を理解していたかは別にしても、三位一体を否定し、封建社会とも結びついたローマ・カトリックの社会構造を非難する宗派というのは、そもそもの時点で共存不可能なのであり、おおっぴらになった時点で弾圧を受けるのは避けがたかったのだろう。ただし、その教義も根拠はしっかり聖書にあったり、また幼児洗礼を否定していたりなど、世が世がであればプロテスタントの仲間入りを果たしていたのではないかと思えるところもあるので、広まった時代が厳しかったという見方もできるかもしれない。


ともあれ、十字軍の目的はふたつであった。ひとつには異端の撲滅。もうひとつは異端を保護・援助する者への処罰。ただし、結果を見ると前者よりも後者のほうで成果があがった挙だったように思える。一方で南フランス地域は最終的にフランスの王権に組み込まれることとなり、もう一方でカタリ派の信仰は特に衰えを見せなかったようだからである。

十字軍は1209年にシモン・ド・モンフォールを旗頭として開始され、1229年にフランスの王室のもとで終焉を迎えることとなった。その間二十年。主要な人物も数が多いので、本書の内容をもとに要点を整理しておきたい。

(完全に個人的なまとめなのでスルー推奨)

十字軍の最初の将軍は何度も書いているようにシモン・ド・モンフォール。十字軍の宗教的使命に対する熱烈な信奉者であり、優れた能力を有する獰猛な将軍でもあったらしい。また、この十字軍へ志願した背景として、北フランス出身の貴族でありながら、血縁にともなう相続によってイングランドの王の勢力下の地を得ていたものの、英仏の戦争の余波でそれを取り上げられてしまっていたという事情もあったそうである。彼の往時、十字軍は基本的に優勢であった。1218年、戦死。

二代目の十字軍の大将はその息子のアモリー・ド・モンフォール(イギリス史で有名なシモン・ド・モンフォールの兄)。父の死後、十字軍によって獲得した土地ともどもその権利を継承するが、父ほどの軍事的才能には恵まれなかったらしい。継承後、徐々に現地諸侯軍によって趨勢を盛り返され、1224年に敗退。フランスの王ルイ8世に南仏領の支配権を捧げて出御を促す。

フランスの王としては、まずフィリップ2世(尊厳王)。イノケンティウス3世から十字軍を起こすよう要請を受けるも足元を見たかのように無理難題ふっかけて拒否する老獪な王。その代わりではないけれど、ブーヴィーヌの戦いでイングランドの王ジョンを破る。

次いで、三人目の十字軍の総大将となる、その息子ルイ8世。1223年即位。即位前から十字軍に前向きだったカトリックの守護者。1226年に王の十字軍を開始。戦禍に疲弊していた南仏諸侯からは戦わずして降伏する者が相次いだ。同年、北部への帰路にて病没。

王ではないものの、その後に実権を握った者として、その妃ブランシュ・ド・カスティーユ。トゥールーズ伯レモン7世の「本いとこ」(とは? 両者とも母方の祖母がアリエノール・ダキテーヌなので「いとこ」もしくは「従姉弟」でいいかと)。1229年にレモン7世とパリ和約を締結して十字軍を完了させる。レモン7世とは血縁関係があったため同情的だったと記されていたが、和約条件はめちゃくちゃ厳しい気がする。

教皇からはひとりだけ、十字軍の勅を下して本格的なカタリ派弾圧の幕開けを告げた人物、イノケンティウス3世。世俗の権力に勝る教会権力の擁護者であり、その在位は教皇権の絶頂期ともされるが、その一方で欲得まみれの世俗の人間に対する諦念も抱きつづけていたらしい。1198年、教皇着座。1208年の南フランス地域における聖職者殺害事件を契機に十字軍を起こすが、異端への対応は改心を理想とし、戦火の中での殺戮には厳しい批判の書面も送りつけていたとのこと。1216年、逝去。

教皇特使からもひとり。シトー大修道院長アルノー・アモリー。北フランス宮廷で十字軍の宣伝活動を行い、彼らともども南フランスで対異端の活動をくり広げた聖職者。十字軍においては強硬策を主張するタカ派で、教皇の非難を受けながらも現地での判断を貫いた模様。有能ではあるがそれ以上に野心高き人物でもあったようで、異端の弾圧を進めながら政敵を追い落としたり、教会内や世俗的な地位を追求し、晩年のシモン・ド・モンフォールとは対立関係が生じるにもいたったらしい。1224年、死亡。

現地諸侯からは、最高支配者であるトゥールーズ伯レモン6世。のらりくらりとした態度で異端取り締まりを拒否する現地諸侯代表。臣下にカタリ派やユダヤ人を多数抱えるため、統治への影響上、取り締まりは無理に近かったらしい。あまりにもやるやる詐欺を働きすぎたと判断された結果、破門され、十字軍を起こされる。本人は戦争は避けようとしたが、講和しても不利な条件での裁判が待ち受けており、和平の道も厳しい状態に追い込まれていたという。1222年、赦されることなく死没。

次いで、その息子のレモン7世。父譲りののらりくらりとした態度で巧みに責任を回避しながらも最後まで奪われた権利を取り返そうとあがきつづけた不屈の領主。軍を率いてはシモン・ド・モンフォール戦死前後からの巻き返しに寄与するも、フランスの王権による攻勢を受けるにいたり、1229年にパリ和約を締結して降伏。唯一の継承権者である女子ジャンヌとルイ8世の息子であるアルフォンスとの婚約が定められたことから、お家断絶を避けるべく、外交面で神聖ローマ皇帝やかつての敵であったはずのローマ教皇をはじめとした聖俗諸侯を利用してあくどいまでの駆け引きをみせる。しかし結局情勢を覆すことはできず、1249年に病没。領地はフランスの王家に吸収された。

いちばん初めにふれてはいるけれど、アラゴン連合王国のペドロ2世(ペラ2世)も。カタルーニャからプロヴァンス地方にまたがる地中海沿岸帝国を手中に納めかけた王。1212年にラス・ナバス・デ・トロサの戦いでムワッヒド朝軍に大勝して、以後のイベリア半島における対イスラーム戦線でのキリスト教諸侯優位を決定づけた王のうちのひとり。その勝利によって教皇からはカトリックの守護者とも目されたが、異教・異端には「寛容」であった。十字軍の攻撃を受けるトゥールーズ伯を助けるべく南フランスに出陣し、あわよくば実質的な宗主権を確固たるものにしようとするも、シモン・ド・モンフォールとの交渉は決裂し、1213年、ミュレの戦いで戦死。

(以上、スルー推奨)

そうした人物たちが入り乱れた十字軍によってあげられた成果は、主に政治的なものであった。開戦前の南フランス地域は「フランス王国の南部であると同時に、アラゴン王国の北部でもあり、さらにはイギリスや神聖ローマ帝国に属する土地もところどころにあり、さまざまな主従関係が複雑に隣り合ったり、混じり合ったり」(165ページ)していた。そのうちのアラゴンの影響力が排除され、ラングドック地方が名実ともにフランスの王権下に組み込まれたのである(プロヴァンスやアキテーヌ地方はそれぞれにまた別の経緯をたどるが、最終的にはフランス王権下に組み込まれることになる)。これによって、フランスの王権は地中海への出口をその領土として有することになった。

ここで面白いのは、十字軍当初の複雑な勢力図の中心にいたのが誰あろうトゥールーズ伯レモン6世だったことである。名目上、彼はフランスの王に臣従している身ではあった。しかしその一方で、プロヴァンス地方においては神聖ローマ帝国の封臣(プロヴァンス辺境伯)でもあった。また婚姻関係においてはアラゴンの王ペドロ2世とは義兄弟の関係(ペドロ2世の妹レオノールと結婚。レモン7世もその妹サンチャと結婚)であり、イングランドの王ジョンとも同様であった(息子レモン7世を産んだのはジョンの姉ジョーン・オブ・イングランド。1199年、死別)。そうした複雑な関係が入り組む渦中において、独立君主のような立場を築きあげていたのがレモン6世なのだという。これはある種の梟雄とも呼べる人物なのではないだろうか。

そんな人物らしく、巨大な権力である教皇から、自身も登用している異端の取り締まりの要請を受けながらものらりくらりとかわしてみせる様子はさながら喜劇のようで、愉快ですらありました。荒れ狂う十字軍の猛威に苦しみながらも、なんとかそれをしのぎ巻き返しを図ろうとする姿も、現地の領主の意地を見せてくれるようでもあり。

ただ、それでも十年を超える年月にわたって十字軍の戦禍にさらされつづけるというのはきわめて過酷なことであったようで、フランスの王出御の報を聞いた現地の人々の反応は想像に余りある。

「モンフォール父子の指揮する十字軍に十五年もの長きにわたって痛めつけられてきたラングドックの人々が、新たな戦争を回避したいと願うのはむしろとうぜんであった。甚大な被害を受けたうえに出費がかさみ、すっかり疲弊してしまった経済、財産を没収され、身内の生命まで奪い取られた多くの領主たち、「地下潜伏」(faidiment)を余儀なくされた騎士たち。言うまでもなく、虐殺、戦闘、火刑台もあった。そのうえ貧困化によって強盗が多発し、地方全体が無法状態に陥った。国全体が、少なくともそのほとんどが、すっかり戦意を喪失し、厭戦気分に陥っていたことは明らかである」(428ページ)

フランスの王権による十字軍に対しても、一部では抵抗が見られたが、それも以前のような組織だった団結のもとでは行われなかったらしい。実際、トゥールーズにおいては、さらなる軍事的支出を積み重ねてでも抵抗をつづけようとする動きに対して、経済的に壊滅状態に陥っていた市参事会の有力者らとの間で分断が発生していたようである。

このように、十字軍の戦火は南フランス地域を困窮におちいらせるものであった。それはあたかもイスラーム側からみた十字軍の姿のようで、「十字軍」の輝かしいイメージとは裏腹のなんとも割り切れない感情を抱かせてくれるものでもあった。


そして、物理的な面で南フランス地域の人々を追いつめたのが十字軍であったなら、精神的な面で追いつめたのはその後に行われた異端審問であった。

異端審問。そこでは拷問や火刑に代表されるような身体的な痛めつけに目が向けられがちであるが、著者によれば真におそろしいのはむしろ心理的な効果であったようで。聞き取り調査や告発の強要、密告の奨励、尋問、拷問などを通して、南仏社会に潜む異端があぶりだされ、断罪されていく。その過程は決して想像されがちなほどに残虐だったわけではないが、それ以上に何十年にもわたる審問活動によって、異端に対して寛容であった社会の思想を根底から変化させてしまったことにその成果があるのだという。同地域において最後にカタリ派信者が火刑台送りになったのは1321年のことであり、1324年にはアラゴンでも最後の終身刑が下された。それらをもって南仏のカタリ派は根絶されたということができるだろう。

とはいえ、これも当初はかつての教皇特使による説教や取り締まり依頼と同様に、ほとんど効果を出せなかったらしい。十字軍に征服されたといってももともと異端に寛容な風土であり、十字軍時代に培われた抵抗のネットワークもあって、信者たちはひそかに活動をつづける完徳者(カタリ派の聖職者)を隠密裏に匿い、援助し、信仰を維持しつづけていたのだという。法廷で告発を強要されてもすでに死んだ者や逃亡した人の名をあげる者が跡を絶たなかったり、聞き取り調査においても有力者からの指示のもとに口をつぐむ者が多発したんだとか。この辺は、十字軍以前からののらりくらりとした抵抗を思わせる喜劇的な部分ではあったでしょうか。

ただ、それならばと審問官は別の手を考えたようで。当初のターゲットであった完徳者から、次なるターゲットとして彼らの支援者である一般信者へと、追及の相手を変化させたらしい。完徳者を追いかけても組織的にそれを匿われては手が出せなくなってしまうが、その組織網ごと異端およびその幇助者として罪に問うてしまえば、異端のネットワークは瓦解し、支援を失った完徳者も早晩立ちいかなくなるという寸法である。南フランス地域の異端弾圧においてはこれが効果的であったらしく、カタリ派聖職者の最後の拠点であったモンセギュールの陥落と合わせ(どちらも1250年前後くらい)、その後着実に異端は消滅へと向かっていったようである。

南仏における異端審問。それは世代を超えて爪痕を残す、長く陰鬱な思想統制の時代であったといえるだろうか。


以上、そんな感じの内容の750ページでした。当時の南フランス地域において、政治的にも宗教的にも大きな影響を残し、けれど歴史はそれらを過去のことして次の時代へと続いていく。あらためてまとめてみてもやはり一幅の物語を味わうような醍醐味がありました。特に十字軍の流れ。使命に燃える英雄がいて、野心もあらわな奸雄がいて、その狭間で自身の利益を最大化しようともくろむ抜け目のない者たちもいて、たいへんに面白かった。彼らを生み出した当時の社会事情や、そこから起こった宗派対立の事情も興味深く、ますます関心が深まってくる一冊ではありました。このテーマに興味がある方にはぜひにとおすすめしたい決定版の通史ではないでしょうか。


不満点をあげるとすれば、地図がわかりにくかったことでしょうか。ひょっとして原書が左開きの本だったのをそのままの順番で右開きの邦訳版に収録しているのでしょうか? そのせいか、位置的に東側にある地域が見開きの左側にきて、西側にある地域が見開きの右側にきており、直感的に把握しづらくてかなわなかったです。

もう一点、誤字指摘としては、人名索引にて「レモン=ベランジェ五世(プロヴァンス伯)」として記載されている人物。本文中で何度か「プロヴァンスのカタルーニャ伯」と記されてますが、「カタルーニャ(系)のプロヴァンス伯」の誤りかと。
posted by 青山尚之(あおやまたかゆき) at 23:36| Comment(0) | ノンフィクション | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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